口腔外科医のあれこれ

某市中病院で働く口腔外科医が、日々の診療のことや旅行記などなどを書いています。フィクションあり、ノンフィクションあり。信じるか信じないかはあなた次第。

木漏れ日の春

遅咲きの桜が一本、枝に大輪の花を咲かせて佇んでいた。
その横には、"海藤総合病院"と彫り込まれた御影石がどっしりと構える。

海藤総合病院は海を見下ろす高台にある。
470床を有し、2次救急を担う地域の中核病院だ。
療養病床も兼ね備えており、海の見えるこの病院で最期の時を過ごす患者も少なくない。

そんな海藤総合病院に続く急な坂道を、リクルート風の人々が登ってくる。

1人の女が、一瞬桜の木の下で立ち止まると、ピンクに染めあげられた頭上を見上げた。
ひらひらと落ちてきた花びらが一枚、女の腕に落ちる。その花びらをそっと摘んで掌にのせると、まるで魔法でもかけるかのように、ふぅっと息を吹きかけた。
と同時に、軽やかな風が吹き、女の長い黒髪を揺らす。
掌を離れた花びらは、風にのってくるくると舞い踊りながらどこかへと消えていった。
女は花びらの行方を見届けると、御影石の横からのびる、青々と茂った緑の芝生の間に敷かれたコンクリートに踏み出し、真っ黒なスーツを纏った人々の中へと紛れ込んだ。

思い思いの速さで歩くスーツの集団は病院の自動ドアを潜り抜けると、手元の紙と、病院の案内図を交互に見比べ、不安そうに院内を見回したり、インフォメーションの職員に話しかけたりしている。
そんな中、女は颯爽と歩いていく。
同じ黒いスーツ。でもなぜか目を引く。女は長い黒髪を靡かせながら売店の前を通り過ぎ、入口から一番近い階段を登る。
その様子をみて、数人がほっとしたように慌ててついていく。
階段を登り切り少し歩くと、大きくドアが開かれたホールが右手に見える。

新入職員入職会

でかでかと明朝体で書かれた幕が壇上に掲げられ、ドアの手前にはテーブルの前でせわしなく動く人達。事務員だろう。まだ女に気付いた様子はない。

「あの」
女がこちらに背を向けた男に声をかける。
「はい!」
くるっと振り向いた男は30代半ばだろうか。まだ4月だというのに、袖をまくり上げて額に大粒の汗をかいている。
「あぁ、新入職員の方ですか、すみません、今受付しますので」
尻のポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭きながら、テーブルをまわる。
胸のプレートには、岩田 征と書かれていた。
「職種はなんでしょうか?」
「歯科医師です。研修医。」
岩田は机の上に置かれた紙をガサガサとめくっていく。
「研修医さんね、えっと…あぁ、これだこれだ!」
数枚の紙の束の中から1枚の紙を取り出す。
紙には名前がびっしりと並んでいた。
「えっと、お名前は?」
ぽたり。
岩田の額から、大粒の汗がひとつ、紙に落ちる。
あらら。と言いながら岩田はその汗を手に持ったハンカチで拭う。
「東です。東渚」
少し眉をしかめながら、女が答える。
あずま、あずま…
岩田は呪文のように呟きながら指で名前を追っていく。
「あ、ありました!東渚先生」
手に持ったピンクのマーカーで、東 渚と書かれた欄に線を引き、こちらをみてにこっと笑った。
「そうしたら、資料を持って席にお願いします。先生は一番前ですね!あ行だから」
1cmはあるだろうか。分厚いファイルが積み重ねられた後方のテーブルを指差しながら岩田は言う。
どうも、と小さく渚は言うと、その分厚いファイルを一つ手に取り、ホールの中へと進んだ。