口腔外科医のあれこれ

某市中病院で働く口腔外科医が、日々の診療のことや旅行記などなどを書いています。フィクションあり、ノンフィクションあり。信じるか信じないかはあなた次第。

初恋の記憶

f:id:tct837etbd3:20191024231459j:image

 

ある日の午後。初老の女性がユニットにちょこんと座っている。

女性のクルクルと渦を巻いた白髪がフワフワと揺れていた。

 

これから歯を抜くのだが…女性はソワソワと落ち着かない。

緊張しているのだろうか。

 

「どうかしましたか?」

局所麻酔の注射を片手に女性に声をかけると、女性は少し困ったような顔をした。

 

「あのね……」

「はい」

「この歯、抜いちゃうのよね?」

「そうですね…もうグラグラですし…痛みも出てますから…残すのは難しいかと…」

 

ここまできてそれか…

心の中で少し苛立つ。

時計をチラと見る。

次の予約まであと20分。

 

女性は続ける。

「あのね…この歯、抜いたらもらってもいいかしら…」

なんだ、そんなことか。

最近は金歯が換金できるのを知って、抜いた歯を持って帰る人が多い。

「勿論ですよ。金属が入ってますし、終わったらお渡しします。」

 

そう言うと、女性は安心したように微笑んだ。

 

「よかった。………この歯ね、初恋の元カレに入れてもらった歯なの。とっておきたくて。」

うふふ、と若い娘のように微笑む。少し赤らんだ頬に当てた手は細やかなシワを刻んでいる。

 

あぁ、この人はいい恋愛をしたんだな。

こんなステキな顔で微笑むことができるなんて。

 

「そうなんですか。それは大切な歯ですね。大事にしてあげてください。」

マスクの下で少し微笑むと、ユニットを動かした。

 

私も、年老いて若い日のことを、こんな風に素敵な顔で語れるようになれたら、どんなに幸せだろう。

 

そう思わせてくれた人だった。