ある日の午後。初老の女性がユニットにちょこんと座っている。
女性のクルクルと渦を巻いた白髪がフワフワと揺れていた。
これから歯を抜くのだが…女性はソワソワと落ち着かない。
緊張しているのだろうか。
「どうかしましたか?」
局所麻酔の注射を片手に女性に声をかけると、女性は少し困ったような顔をした。
「あのね……」
「はい」
「この歯、抜いちゃうのよね?」
「そうですね…もうグラグラですし…痛みも出てますから…残すのは難しいかと…」
ここまできてそれか…
心の中で少し苛立つ。
時計をチラと見る。
次の予約まであと20分。
女性は続ける。
「あのね…この歯、抜いたらもらってもいいかしら…」
なんだ、そんなことか。
最近は金歯が換金できるのを知って、抜いた歯を持って帰る人が多い。
「勿論ですよ。金属が入ってますし、終わったらお渡しします。」
そう言うと、女性は安心したように微笑んだ。
「よかった。………この歯ね、初恋の元カレに入れてもらった歯なの。とっておきたくて。」
うふふ、と若い娘のように微笑む。少し赤らんだ頬に当てた手は細やかなシワを刻んでいる。
あぁ、この人はいい恋愛をしたんだな。
こんなステキな顔で微笑むことができるなんて。
「そうなんですか。それは大切な歯ですね。大事にしてあげてください。」
マスクの下で少し微笑むと、ユニットを動かした。
私も、年老いて若い日のことを、こんな風に素敵な顔で語れるようになれたら、どんなに幸せだろう。
そう思わせてくれた人だった。